平和公園へと続くエスカレーターの横にある松山町防空壕は、エスカレーターの建設工事中に発見されました。
エスカレーター建設のために取り壊された部分を除き、今もなお当時の記録として残されています。
太平洋戦争における日本本土への空襲が激しくなった1944年頃、長崎においては、丘や山が多い地形を利用して、斜面に横穴を掘り、各々を内部でつなぐなどした、防空壕がつくられました。
当時、浦上刑務支所があったこの平和公園周囲の斜面にも、多くの家庭用や町内用の横穴式の防空壕がつくられました。
1945年8月9日の午前11時2分。
長崎市松山町の上空約500mの地点で、アメリカのB29爆撃機から 投下されたプルトニウム型原子爆弾が炸裂しました。
たった一発の原子爆弾で、爆心地から半径500m以内にいた人々はほとんど即死しましたが、 これらの防空壕の中でわずかながら生き残った人もいました。
終戦後、アメリカ軍は爆心地から近い防空壕にまつわる被爆の状況を調査し、防空壕の内部の形状、 その中の生存者と死亡者の位置などを詳しく記録しました。そして、この調査内容は、第二次世界大戦後の核戦争に備えての核シェルターをつくる時の参考にしたといわれています。
2009年の国土交通省の調査によれば、戦争中に長崎には防空壕が193か所ほど存在していたとされています。
平和公園・松山町防空壕は、爆心地から約100mという非常に近い場所にあり、原子爆弾の威力、戦争の恐ろしさはもちろん、平和の大切さを伝える被爆遺構として貴重なものです。