ペンネーム:ゆい
出身地:日本
自己紹介
私は日本の長崎県という場所で生まれ、育ちました。
長崎を最後の被爆地にするために、平和活動を行なっています。地球に住んでいるすべての人が安心して暮らせるように、私のできることはすごく、すごく小さいことですが、精一杯行っていきたいと思いこの記事を書きました。
原子爆弾が落とされた8月9日。当時崎で暮らしていた横尾道子さんに取材し、この記事を作成いたしました。
ご協力いただいた方:道子様
「私の方丈記」
道子さんは6人きょうだいの長女として長崎で暮らしていました。戦争が始まってからも家族で暮らしていましたが、8月9日、その生活を大きく変える出来事が起こったのです。まずは、戦争を体験した道子さんご本人が書かれた記事を紹介します。
私の方丈記
昭和20年8月9日、その日、長崎の上空は一面の雲でおおわれていました。空襲警報解除が出ていたので、人々は少し気を抜いていました。
母は隣家にところ天突きを借りに行っていました。私と弟は、朝食昼食兼用の脱脂大豆入りご飯とカボチャの煮物を食べようとしていました。
突然、ピカ、ピカ、ピカ!閃光が走りました。
ドーン、ガラガラ!反射的に、両手で目と耳を塞ぎました。
目を開けた時、家の中は一変していました。「道子ー!英吾ー!」母の私たちを呼ぶ声。「ハーイ!」母も無事でした。
親子3人は、暑さも忘れて、防空頭巾を被り、母特製のくつ(毛布の切れ端に紐を付けたもの)を足に巻きつけ、とりあえず戸外に出ました。浦上方面の空は夕焼けのように真っ赤でした。後で母に聞いたのですが、その時母は「引き続き、爆撃はあるに違いない。一思いに石橋の下敷きになって親子3人いっしょに死のう!」と思いついたそうです。
私たちは近くの桃谷橋の所にいきました。唖然としました。なんと、橋の下には町内の人たちで鮨詰めだったのです。防空頭巾を被った人々の顔は恐怖におののき、色は青ざめていました。そして、震えた手で合掌し、震えた声で念仏を唱えていました。隣組長さんが「皆さん!静かにして下さい。敵機が攻めてきてもわからないじゃないですか!」とたしなめているのですが、皆は念仏をやめません。異様な光景にしばらく立ち竦んでいましたが、仕方なく半壊したわが家に戻りました。
あの日あの時、長崎の上空が晴れていたなら、私の人生は、国民学校二年生で終わっていたに違いありません。一面の空が上空をおおっていたため、原爆投下の中心地が大部ちがっていた事を後で知りました。
追記:陸軍中慰だった父は、ビルマ(ミャンマー)モールメンにおいて、悲惨極まる状況下で戦闘中でした。
私の方丈記
全てが吹き飛ばされて、建物も何もありませんでした。道子さんの家は、山の向こう側にあったので、爆風の影響は少ない方だったそうです。浦上方面を見ると、2日間くらい空が真っ赤で、子どもの時に見たその風景を今でも思い出せると語ります。原子爆弾が投下された場所は道子さんの家から2.9kmほど離れていたそうですが、焼けたチリが空から降っていました。食べるものも少ないので、仕方なく灰が被った野菜を食べて過ごしました。
原子爆弾が投下された当時は、草木も生えないと言われていました。今は、緑がいっぱいになって本当によかった、毎日を感謝しなければならないと語ります。
幼少期の道子さん
道子さんは8月9日に長崎で被ばくしました。あの時少しでも外に出ていたら、どんな怪我をしていたのだろうと想像すると今でも怖くなると語ります。当時国民学校2年生だった道子さんは被ばくしてから体が弱くなってしまいました。学校を休学して、治療に専念することとなった道子さん。しかし、体はすぐに元通りというわけではなく、学校に登校するようになってからも体操の時間は見学したりして過ごしていました。放射能の影響か、今でも喉に腫瘍ができたままです。
しかし、生きていたらいつか元気になれるのだと、笑顔で語ります。道子さんは4人の子育ての中でそのように実感したと言います。
「みんなびっくりしているのよ。私は若い頃、体が本当に弱かったからね。だから、もし病気になったとしても、どうか気持ちを強く持ってね。弱気になっちゃダメよ。吹き飛ばしてやれ!くらいに思えたら、あなたの勝ちね。」
そのように語る道子さんは、若い頃の経験があったからこそ、子育ても頑張れたと言います。戦後、塩も買いきれないような逆境の中にあっても、アルバイトを掛け持ちして頑張っていました。1日おきに徹夜し、洋服を仕立て兄弟を食べさせるためにと頑張ったのです。
今の道子さん
道子さんは、今についても語りました。
「今、私はとても幸せだと思っているの。クーラーや冷房があるからね。当時は妹たちに氷で背中を冷やしてもらいながら、洋裁の仕事をしていたの。冬は火鉢しかないけれど、火が飛んできたら生地に穴が開くので、離れたところで作業していたね。寒くて、手が腫れるのよ。二十歳になった時、はたちだと思えないほど指先がボロボロだったわ。」
ごきょうだいのために頑張った過去を振り返り、若い頃の苦労も無駄ではなかったと笑顔で語る様子が印象的でした。戦後すぐ辛い状況は何回かあったものの、爆弾が降ってこないだけマシだ自分に言い聞かせていたそうです。
「戦争を頑張って生き延びたのだから、今、兄弟たちを死なせてはならない。戦争が終わったから、もう爆弾は落ちてこない。爆弾が落ちてくるより、ずっとずっとマシだと思ったのよ。」
お母さん
「私の母は、昔から気が強い人だったの。戦時中、父は徴兵されていたから拠り所がなかったと思うわ。父は戦争が始まるまで大学に勤めていたのだけれど、徴兵されてからは休職となってしまったけれど、給料は出ていたの。母はその給料を「神様」に渡していたのよ。」
道子さんはお母さんのエピソードについて真剣に語りました。戦時中は食べるものもなく、精神状態が良くなかったのだろうと語りました。そして、戦争の惨禍にあったため、お母さんにとって頼れる人がおらず、神様がどうにかしてくれると信じていたといいます。
「神様が助けてくれるわけなかやかね。」原爆を落とされ、大きな被害にあった町をみて思ったそうです。
「欲を持たなきゃだめよ。だからといって、欲たれ(欲張り)もだめよ。」
現代でも悪質な団体による問題はあり、これは大昔のことではありません。戦争は終わっても、人の心の中が寂しいことに気づいて悪いことをする人がいるため、「自分が何をしたいか」をしっかり見つめて自己実現をおこなっていくことが大切だと道子さんは教えてくれました。
道子さんにとっての結婚とその後
「20代の時はたくさん縁談があったんだけど、弟や妹の命の方がよっぽど大事だったの。そうしていたら、あっという間に30歳になったわ。」
20代の道子さんに結婚という選択肢はありませんでした。弟や妹の命の方を優先したいと思い、一生懸命働いていたからです。20代前半にはたくさん来ていた縁談も、誕生日を迎えるにつれ、どんどん少なくなっていったと言います。30代になった時、それまで結婚する気はありませんでしたが惹かれる男性と出会い、結婚しました。
「30になったら時間があっという間よ。結婚が幸せかって一概には言えないけれど、あなたにとって幸せなものを見つけてね。」
そして、健康であることが一番だと笑顔で語りました。「健康」は「幸せの根底」。だから、無理せず、休む時は休むこと!「休養」と「栄養」を忘れないことが人生の中で大切だと言います。
世界情勢を見て感じること
世界情勢を報じるニュースを見ると、何とか解決する手立てがなかったのかと感じます。
「どんな物よりも、命より大切なものはなかとさ。」
今の戦争が起こっている状況を見ると、戦争が起こっていた当時のことを思い出すと語る道子さん。今起こっている戦争では、反対する人たちが次々と捕まってしまっています。日本でも反対する人は捕まっていたことを思い出し、当時の記憶が蘇るそうです。
「兵隊さんたちは、家族のためにと思って戦ったの。今戦っている兵隊にされた人もそうだと思うよ。あの時の日本と一緒。」
いつ解決するかわからない戦争の現状を眺めているだけではダメだと言います。そして、戦争が起こるとどこかが儲かるという仕組みを変える必要を指摘しました。不景気になると戦争が起こり、武器商人が儲かる。「人を傷つけ、殺してしまう道具を作って儲けるなんて、鬼よりひどか。」と道子さんは言いました。人類にとって永遠に続いてしまう仕組みを、忘れた頃に行ってしまう惨劇を、「命を大切にすること」を重視してなくさなければなりません。
貧困と戦争
「あのね、人生をより良くするために『欲は必要だ』とは言ったけれど、国のトップに立つ人が『富』を独り占めにすることはよくないことだと思うの。」
道子さんは、お金を持っている人たちがみんなに配分する様な仕組みならまだしも、貧困状態になっている人・なりかけている人から多く搾取する仕組みを変えなければならないと言います。富を得たいために戦争が起こって、お金と引き換えに命が奪われてしまう。戦争の被害を受ける人は、お金持ちではなく、貧困の状況にある人が被害を受けやすいと感じているそうです。
終わりに
戦争を経験していない私たちからすると歴史上の出来事かもしれませんが、道子さんにとっては単なる歴史上の出来事ではなく、道子さんの人生の中に存在する出来事なのです。私たちは、「昔のこと」として軽視するのではなく、きちんと向き合う必要があるのです。過去を知ることで、今起こっていること、未来に起こってしまう可能性があることについて考えることができると信じています。
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取材を受けてくださった道子さんは、「話を聞いてくれてありがとう」と何度も優しい声で言ってくださいました。私に、過去を、そして未来を話してくださって本当にありがとうございました。私はこれからも、平和のために活動していきます。
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